ヨブ記3章

3:1 そのようなことがあった後、ヨブは口を開いて自分の生まれた日を呪った。

 ヨブは、生まれた日を呪いました。これは、既に過ぎ去った日なのですから、呪ったところで意味はありませんが、自分が生まれた日が存在しなければよかったことを強く表現しています。通常は、誕生は、喜びの日であり、その日を覚えて記念をします。しかし、ヨブにとっては、今の苦しみを思うとき、存在しない方がましであるかのように言い、その苦しみを表現しています。

3:2 ヨブは言った。

3:3 私が生まれた日は滅び失せよ。「男の子が胎に宿った」と告げられたその夜も。

 その呪いは、その日が滅び失せることです。生まれた日だけでなく、男子が胎に宿ったと告げられた夜も滅び失せよと。

3:4 その日は闇になれ。神も上からその日を顧みるな。光もその上を照らすな。

3:5 闇と暗黒がその日を取り戻し、雲がその上にとどまれ。昼を薄暗くするものも、その日を脅かせ。

 その日が闇になることは、光のない状態です。ヨブ記の他の比喩も、それを表しています。光は、二十一節の言葉から、いのちが与えられることです。神が上からその日を尋ね求めて肉体の命を与えることです。霊的には、ヨブは、神様の御心を知ることが出来ず、神と共に歩む命の中生きることが出来ないことを恐れていました。

 彼は、今、光がないのです。神の御心を示されることがないからです。そのような状態に置かれるならば、初めから光がないのと同じであり、この世に生まれ出る意味がないことを訴えています。

・「顧みる」→尋ね求める。

3:6 その夜は、暗闇が奪い取るように。その日は、年の日々のうちで喜ばないように。月の日数のうちにも入れないように。

 暗闇が奪い取り、全く注目されないものとなるように。年の中で、喜ばない日となるように。月の日数に入れないことは、その日が全く覚えられないようにと求めているのです。

3:7 見よ、その夜は不妊となるように。その夜には喜びの声も起こらないように。

 その夜は、胎に宿らないようにと。喜びの声も起こらないように。懐妊を誰も喜ばないように。

3:8 日を呪う者たちが、レビヤタンを巧みに呼び起こす者たちが、その日に呪いをかけるように。

 日を呪う者たちがいたとして、レビヤタンを呼び起こす者がいたとして、その者がその日に呪いをかけるように。

・「レビヤタン」→編まれた動物。蛇やわにのような模様の動物。

3:9 その夜明けの星は暗くなれ。光を待っても、それはなく、暁のまばたきを見ることがないように。

 夜から星の光もなく、朝の光もないように。ここでも、誕生の時、光が与えられることがないようにと求めています。

3:10 その日が、私をはらんだ胎の戸を閉ざさず、私の目から労苦を隠してくれなかったからだ。

 ここに呪う理由が語られています。それは、彼が胎に宿ったからで、それが止められなかったからです。彼の苦しみが隠されなかったからです。今、神と共に歩む命を経験できないので苦しんでいるのです。

・「労苦」→苦しみ。苦痛。ヨブの経験は、労苦でなく、苦しみである。

3:11 なぜ私は、胎内で死ななかったのか。胎を出たとき、息絶えなかったのか。

3:12 なにゆえ、両膝が私を受けとめたのか。乳房があって、私がそれを吸ったのか。

 彼は、いくつかの仮定を語っています。彼は、胎の中で死ねばよかったと、生まれた時死ねばよかったと。また、なぜ、母に抱かれて、乳を吸ったのかと。

3:13 今ごろ私は安らかに横になり、眠って安らいでいただろうに。

3:14 自分たちのためにあの廃墟を築いた王たち、地の指導者たちと一緒に。

3:15 黄金を持ち、自分の家を銀で満たした首長たちと一緒に。

 もし、死んでいたならば、今は、安らかに眠っていただろうにと。かつて繁栄した王、地の指導者たち、宝に溢れた首長たちとともに。彼は、東で一番の富豪ですから、その者たちと肩を並べる人です。

3:16 なぜ私は、ひそかに堕ろされた死産の子、光を見なかった嬰児のようにならなかったのか。

3:17 かしこでは、悪しき者は荒れ狂うのをやめ、かしこでは、力の萎えた者は憩い、

3:18 捕らわれ人たちもみな、ともに安らかで、激しく追い立てる者の声も聞こえない。

3:19 かしこでは、下の者も上の者も同じで、奴隷も主人から解き放たれている。

 もし、死産の子のように、なっていれば、皆安らかでいる者たちとともにいたものをと。そこでは、力の萎えたものも、奴隷も安らかです。

 ヨブは、死後の世界について、人の社会での関係から解放され、安らかさを享受できることを知っていました。

3:20 なぜ、苦悩する者に光が、心の痛んだ者にいのちが与えられるのか。

3:21 彼らは死を待つが、死はやって来ない。隠された宝にまさって死を探し求めても。

 ヨブには、苦悩が与えられました。彼は、彼の受けた災いは、彼の罪のためであるという態度をとっています。しかし、その苦しみの理由については、示されていません。もし、罪のためにその苦しみを受けているのであれば、神と共に歩む命を経験できません。それが彼の苦悩でした。その苦悩は、止むことがありませんでした。

 彼は、第三者たちについて同じように、死を望んでも与えられないことを取り上げています。彼は、その苦悩を味わい続けるよりも、死ぬことのほうが隠れた宝に勝っていたのです。しかし、死ぬことはなく、苦しみが続くのです。

3:22 彼らは墓を見出したときに、歓声をあげて喜び楽しむ。

 苦しみの中にある人は、墓に入ることを歓喜します。

3:23 自分の道が隠されている人、神が囲いに閉じ込めた人になぜ光が与えられるのか。

 彼には、苦しみが与えられていて、その苦しみの目的もわからず、道が隠されているのに、光としてのいのちが与えられています。神が囲いに閉じ込めていることは、進むべき道がわからないことを表しています。

3:24 まことに、食物の代わりに嘆きが私に来て、私のうめきは水のようにあふれ出る。

 彼は、食物を味わうのでなく、口から嘆きが出てきます。水を飲むのでなく、うめきが口から溢れ出ます。

3:25 私がおびえていたもの、それが私を襲い、私が恐れていたもの、それが降りかかったからだ。

 彼は、死を恐れているのではありません。激しい痛み苦しみについて、その理由が分からないからです。罪に対する処罰であるならば、その目的は明確です。彼は、その苦しみを受けなければなりません。しかし、彼の苦難は、自分の道が隠されていることです。苦しみの目的が分からないのです。神から見捨てられているのか、それとも受け入れられているのかわかりません。彼は、神の御心に適わないことを恐れていました。

 彼は、神と共に歩むことを喜びとしていました。罪を犯したならば、すぐにいけにえを捧げ、清めるのです。ただ、彼に関しては、罪を犯したことは記されていません。しかし、まるで神から捨てられたかのように苦しみだけがあることについては、耐え難いのです。

 苦しみの末に死ぬことが御心であると分かっているのであれば、彼は喜ぶのです。しかし、その理由も分からずいつまでも苦しみだけが続くことに苦しんでいるのです。彼は、その理由を知りたいと願っているのです。彼は、神の御心に適って歩むことを願っていたからです。そして、神と共に歩む命を経験したかったのです。

ヨブ記

6:8 ああ、私の願いがかなえられ、私が望むものを神が下さるとよいのに。

6:9 神が望むままに私を砕き、御手を伸ばして私を絶たれるのであれば、

6:10 それはなおも私にとって慰めであり、容赦ない激痛の中でも、私は小躍りして喜ぶ。私は聖なる方のことばを、拒んだことはない。

6:11 私にどんな力があるのだろうか。私が待たなければならないとは。どんな終わりがあるのだろうか。耐え忍ばなければならないとは。

6:12 私の力は石の力なのか。私の肉は青銅なのか。

6:13 私のうちには何の助けもないではないか。すぐれた知性は、私から取り払われている。

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3:26 安らぎもなく、休みもなく、憩いもなく、心は乱れている。

 彼は、神の御心に適わない者とされることを怯えていました。苦しみの理由が神の御心に適わないからであるとされることを恐れました。それで、やすらぎ、休み、憩いがないのです。心は、乱れていました。